■2.なぜ「私はあなたを愛しています」ではないのか?■

 最初の事件は、ある日、クラスで学生の一人がこんな発言をしたことだった。

 先生、ジュ・テームを日本語でどう言うか、本に書いてありましたよ。えーと、「私は・あなたを・愛しています」ですね。

 その時、金谷氏の心に一つの大きな疑問符が浮かんだ。フランス語の「ジュ・テーム」や英語の「アイ・ラブ・ユー」はよく使われる表現だ。しかし、「私はあなたを愛しています」なんて、日本人はまず言わない。確かに文法的には正しいのに、なぜこの日本語表現はおかしいのだろう。

 次の事件は「日本語が分かります」という例文についてだった。ここには「私は」が省略されていると説明した時、別の学生が聞いた。「先生、この文の主語はどれですか。」

 主語は「私は」ですよ、と答えようとしたが、それでは「日本語が」は何なのだろう。「太陽が昇る」というように、「が」は主語を示す、と教えたのではなかったか。金谷氏は、言葉を失ってしまった。「IunderstandJapanese.」なら、なぜ「私が日本語を分かります」ではないのか。

 金谷氏の心の中には深い屈辱感と焦燥感が残った。自分の母語さえ上手く説明できないのに、エラそうに西洋の古典語なんか勉強するのは本末転倒もいいところではないか。

■3.「僕はウナギだ」■

「今の日本語文法は日本語を教えるのに役に立たない」と日本の友人に手紙でぼやいた処、送ってくれたのが『象は鼻が長い』という本であった。それを一気に読み終えたときには、日本語文法への疑問が氷解し、「よし、これで修士論文も書ける」と胸が高まった。

 この本の著者・三上章は「街の言語学者」と呼ばれ、その研究は日本の学界から無視され続けて、昭和46(1971)年に不遇のまま世を去った人物である。

 三上の主張は、日本語には英文法から導入された「主語」の概念は不要かつ有害である、という点だった。たとえば、「は」が「主語」を表す、と考えると、以下の文章はどうなるのか。

(昨日までは晴天だったが)今日は雨だ。
(あなたは天丼を頼んだが)僕はウナギだ。

 ”Todayisrain.”などと、そのまま「○○は」を主語として訳したら、珍妙な英語にな。”Iamaneel(ウナギ)”では、カフカばりの変身譚だ。

 三上は、「は」の役割は「主題」を提示することであると主張する。だから「○○は」とは、「○○について言えば」であり、英語に訳す場合、”Asfor”とすると、まだしも意味が通じる。

Asfortoday,it(theweather)israin.
Asforme,it(myorder)isaneel.

 さらに英語らしくするには、”is”ではなく、「○○する」という動詞を使って、

Itrainstoday.
Iorderaneel.

 とすべきだろう。

■4.「ある」表現と「する」表現■

 上記の例から、日本語が”is”、すなわち「ある」表現を基本構造としているのに対し、英語では「する」表現をベースにしている、という事が窺われる。

 もう少し、例を見てみよう。

Ihaveason. / 息子が一人いる。
IunderstandJapanese. / 日本語が分かる。
IseeMt.Fuji. / 富士山が見える。

 このように英語での「する」表現を、日本語での「ある」表現にすると、こなれた訳となる。

 英語は「する」表現が中心なので、主語としての行為者が先頭に立つ。それに対して、日本語は「ある」表現中心であり、行為者は、どうしても必要な場合以外は陰に隠れているのである。

■5.「私はあなたを愛します」?■

"Iloveyou."は直訳すれば、「私はあなたを愛します」だが、こんな「する」表現を使っていたのでは、すぐに「ガイジン」だと分かってしまう。日本語に近づけるために、まずは「ある」表現で「私はあなたを愛しています」とする。

 さらに「私は」と言うと、私が主題となってしまうから、「彼とは違って私は」などとことさら言う必要がない場合は、「私は」を除くべきである。これで「あなたを愛しています」と、かなり日本語らしくなる。

 また「する」動詞”love”は、文法上、目的語が不可欠なのでたとえ、二人きりで親密なムードが盛り上がって、ことさら「あなたを」などと言う必要のない場合でも、わざわざ”you”をつけなければならない。「ある」表現の日本語では、そんな事はないので、「愛しています」で良い。これでかなり自然な日本語らしい表現となった。

 結局、「する」表現の英語では、主語”I”も、目的語”you”も、文脈上ことさら言う必要のない時でも、文法上の制約から、わざわざつけなければならないのである。”love.”の一語では文章にならないのだ。

 文法上の理由で、わざわざ主語をつける最も無駄な例が、”Itrains.”である。日本語ならずばり「雨です。」で良い所を、”Rain.”では文章にならないから、わざわざ”It”という意味のないダミーの主語をつけている。

 学校文法では「主語」+「述語」を基本中の基本としていて、これがあたかも地球上の全ての言語の従うべきグローバル標準であるかのように教えられているが、日本語は明らかにそれに従っていないのである。

■6.英語はヨーロッパにおいてさえ「全く例外的」な言語■

 そもそも西洋文法に「主語」が登場したのは、12世紀になってからである。16世紀のシェイクスピアでも、「・・と思われる」という意味で、主語のない”me-thinks”,”me-seems”という動詞が使われていた。「ある」型の表現である。その後、前者はなくなり、後者はダミー主語をつけて、”Itseemstome…”となった。

 現代でも、スペイン語やイタリア語では、動詞の格変化で主語が”私”か”我々”か、などは分かるので、強調する時以外は人称代名詞は、わざわざ付けない。[1,p64]

 ヨーロッパの諸言語はその歴史を通じて、一貫して「する」言語への道を歩んできた。その中でも英語は、最先端に位置する言語であろう。世界の古今東西の言語に通じた言語学者・泉井久之助によれば、英語はヨーロッパにおいてさえ「全く例外的」な言語である。[2,186]

 そのような英文法をあたかもグローバル標準であるかのように考え、それでもって「日本語はよく主語を省略する、曖昧で非論理的な言語だ」などと言うのは、あまりに「英語セントリック(金谷氏によるエゴセントリック、自己中心主義、の洒落[1,p24])」な謬見である。

■7.「止まる」と「止める」■

 「する」表現中心で行為主としての「主語」がかならずある、という英文法の「特殊性」を離れて、日本語そのものを見てみれば、そこに日本人の物の考え方が浮かび上がってくる。

 その一つが、多くの自動詞と他動詞がペアとなっていることである。

止まる(tom-ARU)/止める(tom-ERU)
始まる(hajim-ARU)/始める(hajim-ERU)
変わる(kaw-ARU)/変える(kaw-ERU)
伝わる(tutaw-ARU)/伝える(tutaw-ERU)

 英語では「止まる」も「止める」も”stop”であり、「始まる」も「始める」も”start”である。自動詞と他動詞がこれだけ豊かに、かつ体系的に揃っているのは、日本語の特長である。

 英語は「する」表現中心だから、自分を止めようと、他者を止めようと同じ”stop”で、自他の区別はあまり気にしないのだろう。逆に、日本語では「ある」と「する」を厳密に区別する。

 ローマ字表記だとよく分かるように、日本語の自動詞には「ある-ARU」が潜んでいる。一説によると「ある」の語源は「生(あ)る」で、「生まれ出る」という意味である。

 物事が自然に生まれ出る、あるいは、自ずからある状態になる、という事を尊ぶ日本人の世界観が窺われる。

■8.「受身」「尊敬」「可能」「自発」に共有されているもの■

「ある」は受身形にも潜んでいる。

止める(tom-ERU)/止められる(tom-ER-ARERU)
始める(hajim-ERU)/始められる(hajim-ER-AREURU)
変える(kaw-ERU)/変えられる(kaw-ER-ARERU)
伝える(tutaw-ERU)/伝えられる(tutaw-ER-ARERU)

 末尾の「-ARERU」に、また「ある」が潜んでいるのである。この点は、英語での受動文が、”Thetrainisstopped.”などと「ある」表現のBe動詞を用いて表現されるのと似ているが、そのニュアンスは微妙に違う。

能動文:熊が太郎を殺した/AbearkilledTarou.
受身文:太郎は熊に殺された/Tarouwaskilledbyabear.

 英語では受身文は能動文の単純な裏返しだが、日本語では「その状況下では太郎は無力だった」という無念さが籠もる。

 日本語の受身形の持つ、自らの意志や能力を超えたものに何事かをなされる、というニュアンスの例としては、以下が典型だろう。

祖母に死なれた。/赤ん坊に泣かれた。/雨に降られた。

 これらをそのまま、英語に直訳してたら、とんでもない事になる。

 さらに日本語の受身形である「れる」「られる」は、

尊敬(先生が話された)
可能(その野菜は生のまま食べられる)
自発(亡父のことが思い出される)

にも使われるが、これらは「ある行為が人間のコントロールを超えたところでなされる」という共通のニュアンスがあると考えると、「受身形」と同じ表現を持つ理由がよく理解できる。
[1,p184]

■9.「日本語にはやはり和服がいい」■

 英語、広くはヨーロッパ諸言語では「する」表現が中心であり、その行為者が主語となる、というきわめて能動的・主体的な性格は、ヨーロッパ人が、科学技術をもって自然を征服し、世界中を植民地にしていった歴史と重なって見える。

 一方、日本語の方は「ある」表現を中心として、なるべく行為者を表に出さず、常に人智・人為を超えた世界を強く意識している点は、自然の中の「生きとし生けるもの」の一員として生きてきたわが祖先のつつましやかな人生観を連想させる。

 金谷氏は、世界中の日本語学習者が200万人を超えるという未曾有の日本語ブームであることを指摘した後、こう述べる。

 そのお祭り騒ぎの真っただ中で、しかし、実は多くの日本語教師が困っている。学習者にも不満が高まっている。何故か。日本語文法がいまだに日本語の感性を、語感を反映したものになっていないからだ。明治以来、百年の学校文法は、その基本的発想が日本語でなく英語だからである。それを抜本的に改正することなしに今日まで来てしまった結果だ。自分の背丈に合わない、だぶだぶ(あるいはツンツルテン)の燕尾服を百年の長きにわたって着せられてきた日本語をやはり著者は不幸だと思う。日本語にはやはり和服がいい。[1,p19]

 こうした「和服の日本語文法」ができたら、それを通じて現代の日本人も、自分の心の底に潜む先祖の世界観・人生観をよく理解することができよう。それによって、「する」中心の世界観を基に環境破壊と闘争に明け暮れる現代世界において、独自の文化的発信ができるだろう。

paris2london:

The White Blazer